第五章
  行き止まり

木暮は、その日のうちに出雲空港から東京に戻った。
向居玲奈が、あの日(平成十一年四月十八日。木暮が美土里のマンションを訪ねた日)に日本にいたことを証明しなければ捜査は振り出しに戻るからだ。
もちろんこのことは、マンションにいた女が向井玲奈に違いないとの木暮の考えに基づくが…。
そして、もちろん六月二十七日(内田恒太が殺害された日)にもだ。
向居玲奈が渡米するのは今月・七月二十三日である。
今日からその日までの一週間が木暮に与えられた日数だった。
いっぽう野上も、引き続き井辻美土里と竹見貢の行方を追うために署に戻っていった。その捜査の中には、井辻美土里のマンションから共に姿を消した家財道具の発見も含まれている。
木暮が、上杉の自供によりマンションを二度目に訪ねたときは、ゴミ一つ残されてはいなかったからだ。しかし、その家財道具に何が含まれていたのかさえ、いまもなにも分かってはいない。
木暮は、空港で野上に依頼していた。
「野上刑事、なんとか向居玲奈の指紋の採取を頼みます」と。
木暮も東京のマンションで向居玲奈の指紋を得ようと考えていた。
聞き込みは、時としてその対象となった人間に多大な影響を与えることがある。
それも、その多くはその人にとって不利となることが多い。
一般に人は、警察が情報を得ようとする相手をまともに見ようとしない。いわば平穏に暮らしている人の、知られたくない過去を暴くことにも繋がる。
それが真の犯罪者ならやむをえないが、全くの誤解もあり得るからだ。
そして、別件逮捕から誤認逮捕にと進む、あってはならない現実に、職を失ったり家庭崩壊に至る事例もあるのだ。
さらにひどいことは、怖ろしいことにその保証などは全くと言っていいほどなされない現状を、木暮も野上もよく知っていた。
二人はそれを一番恐れ、より慎重にならざるを得なかった。
別れ際の木暮と野上の表情は、如実にそれを物語っていた。

木暮の帰京を待つ、東京で靴底をすり減らす木暮の部下・工藤栄一も、一連の事件の手がかりはいまだなにも掴めてはいなかった。
忽然と消えた竹見貢も井辻美土里も、ようとしてその行方が知れず、刺殺死体で発見された内田恒太事件も何らの進展もなかったのだ。
目撃された男の情報も一切なく、ただ毎日が矢のように過ぎ去るだけである。
「背広姿か…」と、その日の夕刻に捜査一課に戻った工藤がぼやくのは分かる。
これが現場から立ち去った男の唯一の手がかりだからだ。
金庫内のビデオテープも、市販のありきたりのもので出所の特定も出来ない。
スタジオ・ミロの経営者・内田恒太の交友関係は、ろくな人間がいなかったが殺害に関与するような人物も見あたらないのである。もちろん聞きこんだ人数も相当数に上る。しかし、全員にアリバイがあるのだ。
現時点では、彼と上杉博司、竹見貢の関係も単に写真の現像やカメラなどの購入の取引でしかないのである。
文字通りお手上げ状態であった。
「ご苦労様です!」との同僚の声で、工藤が部屋の入り口を見たのはそんな時だった。
木暮が戻ってきたのだ。
「警部! いかがでしたか? こちらは進展がなくて…」
駆け寄った工藤は、東京での捜査が芳しくないことを率直に伝えた。
だが、申し訳なさそうに報告する工藤に対する木暮の応えは、
「工藤君、外務省に付いてきてくれ」であった。
旅券課での確認に、木暮はすべてを賭けたのだった。
しかい、旅券課から本庁に戻った二人の足取りと口は重かった。
記録では、向居玲奈は過去に三回帰国をしていた。
最初の帰国は七年前の平成四年一月、次は平成十年七月十日。そして今月の七月十八日である。
「最初に旅券を取得したのが十七歳の時の十年前で、五年後の二十三歳の時に帰国して有効期間十年のパスポートに切り替えているね」
「なんでも二十歳未満は有効期間が五年のものしか取れないそうですからね。それからその五日後には、再び大阪空港から渡米しています。次の帰国も四、五日で戻っていますね。警部、玲奈の帰国は一昨年の七月には間違いはないですが、すぐにまたアメリカに戻っています。それと、警部がお会いになった平成十一年の四月には玲奈はアメリカにいます。玲奈は日本にはいませんね…」
「そして次が、今月の七月二十日の葬儀の時だね…」
出入国の管理記録メモを見ながら、木暮は口を尖らして言った。
「警部…警部の思い過ごしということはないのでしょうか…事件があった時にはアメリカにいるんですよ?」、 言いにくそうに工藤が小声で訊いた。
「うん。俺も認めざるを得ないようだね…、泳いで来る訳にはいかないもんな」、木暮はタバコに火を付けると二、三度ほど大きく吸い込んで、フーといきよいよく吐き出した。
出入国管理を疑う訳にはいかないし、その記載に間違いはないのだ。
さらに、向居満が帰国したのも荼毘に付された七月十八日であり、内田が殺害された六月二十七日には間違いなく日本にはいなかったことも確認されたのだ。
この決定的な事実にさらに追い打ちを掛けたのは、指紋の件であった。
野上の必死の努力でも向居玲奈の指紋は得られなかった。
向居玲奈は、再び渡米するまで一歩も外出することがなかったのだ。
 さらに、美土里が住んでいたマンションの部屋にはすでに入居者がおり、指紋採取には幾度となく頭を下げなければならなかった。現在の入居者のプライバシーを持ち出されては頼み込むしかなかったのだ。小暮は手みやげ持参であった。
だが、井辻美土里の住んでいたマンションからも、当然のように玲奈の指紋は採取されなかった。
そのすべてが徒労に終わっていた。
捜査は振り出しに戻ったのである。いや振り出しと言うより、入り口さえも見つからないと言った方がこの場合は適切かも知れない。
残された方法は、井辻美土里と竹見貢を発見するしかなかったのだ。
木暮と工藤には何の目算もなく、あるものといえば焦りと疲労だけだった。
それは島根にいる野上にもいえた。
そして、向居玲奈は木暮たちの苦悩を後目に一週間後、再び渡米した。

その夜、木暮は並木に連絡を入れた。
「おい、並木」で始まる木暮の声に、全く生彩がないと並木は感じた。
「指紋も、パスポートもだめだったよ。どうも俺の早とちりだったようだ…」
「アメリカにいたのか?」
「ああ、アメリカにいた人間が日本にいるわけがないからな。それと、野上刑事に役場で確認して貰ったが、井辻美土里は井辻家の実子だった。双子じゃないよ。残るはそっくりな人間…玲奈のような人間がいると仮定するしかないが、そんなこともありそうもない」
「そうだね…しかし…」、並木はやはり納得がいかなかった。
というのは、上杉の証言があまりにも迫真に迫っているからだった。
「お前さんもだとは思うが、俺も上杉の証言がなぁ…」
並木以上に木暮はそのことが頭から離れなかったのだ。
「上杉は、いまもそう言っているんだね?」
「ああ、じつは拘置所に訪ねたんだがな。やはり同じだ」
「生き返るわけがないのに、生きているか…なあ、木暮。パスポートの偽造と言うことは考えられないのか? 最近は手の込んだものが作れるんだろ? この前も、大がかりな偽造グループが摘発されたらしいが」
「そのようだな…だからもちろん俺も考えたさ。ひょっとすると二通のパスポートを使用しているのではとな。だが、出入国の記録では玲奈のパスポートの記載と出入国の記録は一致する。不審なところはないよ。野上刑事に役場で確認して貰った後、自宅で本人に任意の形でパスポートを見せて貰った。県の旅券課員と同行してもらったんだが、本物だよ」
「そうか、偽造でもないとすると。玲奈は無関係か…」
「そのようだな…。それに死体はないし、手がかりもない…」
「そうなると、黒曜石からしか無理なんだね?」
「そうだが、肝心な向居医師からも訊くこともできないしな。このままじゃ…」
木暮は、のどからある言葉が出かかるのをかろうじて押しとどめていた。
木暮は、自分の手がけた事件で迷宮入りした事件がないことが一つの自慢であった。だが、この事件は(ひょっとしたら)との思いが、心の一画に生まれていたのである。
「なあ、木暮。金庫内の石器がこの事件の鍵を握っているのは間違いないと思うが、そっちはどうなんだ?」
「どうもこうもないさ。工藤が聞き込みにまわってはいるが、黒曜石の石器が盗まれたとか、それに類似した犯罪があったとかは一切ない。それに、お前さんが言っていた電気炉はどこの大学にもあったよ」
「判った。僕も少し当たってみるよ。幸い大田署には野上刑事がいる。もう一度、野上さんと一緒に向居の奥さんを訪ねてみるよ。きっと何かが分かるだろう」
「あの息子は大丈夫か? 鉢合わせすると面倒だぞ」
「この前は日が悪かっただけだ。それに息子は同居じゃないから心配はいらないよ」
「ならいいが、慎重に頼むぞ」
木暮は、葬儀の日の息子の態度を心配していたが、ここは並木に任せるのが最善の方法だとも思っていた。

並木と野上が向居家を訪ねたのは土曜日だった。ガレージには先日の車はなく、息子の一正は立ち寄ってはいないようだ。
並木は、ゆっくりと門扉のチャイムを押した。
だがその一時間後、並木と野上は、力無く向居家を辞さなければならなかった。
未亡人・さと子から得られた情報は、並木がすでに知っていることだけであり、なにも目新しいことはなかったのだ。
向居が生前に各地の遺跡の発掘調査に関わっていたことは前述したが、さと子の口からも向居の居室からも有舌尖頭器のかけらさえも出ず、また見つからなかった。
整理された広い棚とテーブルの上にあったのは、土器と黒曜石製の鏃だけでだった。
その一つ一つには、発見場所・日時・年代などがこと細かく記されていた。
何かしらの手がかりを得ようと 並木はそれをていねいに見ていった。
並木はそのあと向居の調査記録に目を通したが、資料に対する考察はいかにも考古学を愛した学者らしく生き生きと綴られていた。
並木はその中である言葉に心を惹かれた。

―黒い宝石…このきらめきを持つ不思議な石は、私の心を捕らえて離さない。それは、ちょうど女性が目映いダイヤモンドを愛するように…。
自然が作り出した永遠の輝きは、一万年を経た現在でも消えることはなく、かつての人々の生き様を私に見せてくれる―

並木は、このわずか四行の文章に考古学者・向居満の黒曜石に対する深い造詣を見たような気がした。
「主人が大切にしていたものですから、ここはそのままにしてあるんですよ…」との、さと子の声に頷き、壁際の電気炉を開いてみた。並木が関心を寄せた電気炉である。
幾度となく使用された形跡はあったが、もちろんいまは空の蒸発皿がぽつんとその内部にあるだけだった。
並木は、大田市に戻る車中で野上にある言葉をかみしめながら言った。
「向居先生は、この事件には無関係かも知れませんね。あの人はあんなに黒曜石が好きなんですから…」と。